長山智香子 2009 Nikkei Voice-Toronto Article 9
日系ヴォイス 2009年6月号

Constitutional Advocate of Peace: Bridging Nikkei Generations and Beyond through a Transnational ‘Article 9’ Movement

長山智香子

トロント発–「日本国憲法第九条:世界にもたらす平和」と題して去る五月一五日に開催された集会は、様々な分野の人達の協力によって、日本国憲法平和条項をトロントの住民に紹介する初の試みであった。
「第九条」には、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永遠にこれを放棄する」とある。しかしながら、この平和条項は、常にこれを変えようとする圧力を受けてきたのも事実である。トロント大学オンタリオ州教育学部(OISE)で開催されたこの集会に参加した八〇人以上の人たちは、日本の再軍備の実態を歴史的そして現代的視点から学ぶこととなった。
作家ジョイ・コガワ氏による開会の挨拶は、戦時中のカナダ政府によってなされた日系人に対する強制移動と、日本軍が行った中国人虐殺、強姦、細菌兵器生体実験などの事実という両側面を語り、日系人であることの複雑な立場を浮き彫りにした。バンクーバー生まれのコガワ氏は、「家族を愛し、勤勉で謙虚な日本人」という子供の頃に教わった日本人像は、戦争が始まり「ジャップ」として見下されることで、否定されてしまった、という。日本軍が実際に蛮行に及んでいるとあっては、「残忍で野蛮な偽善者」という「ジャップ」のイメージが、架空の物話だから自分に関係ないと言えなくなった。
コガワ氏は、「第九条を失うことは、世界で最も成熟した、最も慈悲深い、最もまともで、世界の紛争解決に希望を抱かせる大切なものを失うことです」と結んだ。
その後に上映されたドキュメンタリー映画「日本の平和憲法(ジョン・ユンカーマン監督、二〇〇五年制作)」では、様々な方面から、この条項を守ることの大切さを訴える意見が紹介された。日本国憲法は、一九四六年の占領下で創案されたもので、第九条は連合国司令官総司令部(GHQ)によって押し付けられたものだと、日本の愛国主義者は批判している。実際には、二つの憲法草案が日本人の研究グループから提出され、GHQからも一つの草案が提出された。このドキュメンタリー映画で、ビエテ・シロタ・ゴードン氏がはっきり述べているように、GHQの草案は、彼女のように新しく任命された調査員達によって、一週間で仕上げられたものである。ドイツのワイマール憲法やソ連、スカンジナビア諸国の憲法を参考にしながら、シロタ・ゴードン氏は、当時アメリカ憲法でも実現していなかった、女性福祉の権利なども盛り込む事に積極的に取り組んだ。元アメリカの海兵隊員で、現在は沖縄在住のCダグラス・ラミス氏は、日本国憲法は国民から政府へ要求したものであって、決して上から押し付けられたものではないと強調している。歴史家の日高六郎氏は、一歩進んで「平和憲法は、日本のアジア諸国民への謝罪である」と言う。映画製作家のバン・ゾンギ氏およびフェミニスト運動家のシン・ヘイスー氏はそれぞれ、日本軍による蛮行の記憶はまだ鮮明であり、しかも、日本は未だに謝罪していないと証言する。ジャーナリストのミッシェル・キロ氏やジョセフ・サマハ氏は、日本の自衛隊によるアメリカ軍への軍事活動支援は、アジア近隣諸国のみならず中東諸国をも憤慨させていると、現代の問題に関連させて語る。
平和条項は、日米安全保障条約という事実上の軍事同盟を正当化する為に、常に改悪の圧力がかけられた状態にある。バンクーバーのピース・フィロソフィー・センター代表の乗松聡子氏は、二〇〇六年一〇月に政権党である自由民主党が提出した「新憲法」草案に警笛を鳴らした。自民党の草案では、現憲法に記載されている「軍隊の保持を禁じ、交戦権を認めない」条文を削除した内容となっている。
この草案は、日本の集団的自衛権を認める内容になっており、それによれば、アメリカ合衆国が攻撃された場合は、日本は攻撃した相手国に「報復」を加えることが出来る事になる。乗松氏は、これまで第九条がもっていた軍事行動への抑止力が、これによってなくなってしまうと危惧する。「日本政府は、インド洋に自衛隊を派遣しています。しかし、自衛隊は、あくまで、直接戦闘に関わらない兵站上の任務のみに限られており、活動範囲も戦闘地域以外に限られています」と乗松氏は説明した。
乗松氏の後、移住者のジャーナリスト田中裕介氏が、当日五月一五日が偶然にも沖縄が日本に返還されてから三七回目の記念日であることことに絡めて、当時世界的に沸き起こった平和運動のひとつの頂点が、一九七二年の東京に展開した状況を語った。「ベトナム戦争反対」と「沖縄返還反対運動」がそれである。田中氏は、沖縄に駐留するアメリカ軍基地はアジアで最大の規模であり、沖縄の住民は、依然として日本国本土からは差別された状態に置かれていると指摘した。それは、二〇〇七年文部科学省が、歴史教科書の「太平洋戦争沖縄戦」に関する記述を修正させ、それによって日本軍が沖縄住民に対し集団自殺を強要した事実をあいまいにさせようとしたことに如実に現れている。沖縄住民の怒りの抗議を前に、文部科学省は歴史教科書から削除した説明文を復活させ、一部を元の記述に戻している。「第九条は国宝のように扱うべきではない」と田中氏は語る。日本があたかも平和国家であるかのような幻想を抱かせる結果となり、それにより、沖縄住民への差別問題が今後も無視される状態が続いてしまう、と田中氏は指摘した。
アメリカ軍による弊害が議論で繰り返し強調される中、ピーター・カズニック氏は、アメリカ国民の愛国心に対してどのように疑問を投げかけられうるかを興味深く語った。ベトナム戦争戦没者記念碑は、この戦争で戦死した五万八千人ものアメリカ兵を追悼することで愛国心を煽りながら、一方では、四百万人にも及ぶベトナムの軍人および市民の犠牲者については、まったく触れていないという。アメリカ大学原子力研究所の教授であるカズニック氏は立命館大学と協力して、一九九五年から毎年、学生たちを広島と長崎に研究旅行に連れて行っている。彼は、また、一般には「日本を救った男」として知られているダグラス・マッカーサー元帥の極めて複雑な人物像を紹介した。マッカーサーは、太平洋戦争を終結するのに原爆は必要なかったと考えていたという。しかし、彼は、また同時に、日本の天皇制を維持させ、さらには、中国を攻撃するのに原爆を投下することを主張したと、カズニック氏は指摘した。歴史的にみれば、原爆が投下されたのは確かに二回のみであるが、この後、原爆は頭に突きつけられた拳銃のように、実際には引き金を引かずして、他国に恐怖心を与えアメリカの言いなりにさせるに十分な効果を上げることになった。
広島での被爆者であるサーロー節子氏は、戦前の独裁的、帝国主義的社会から一九四五年以降の民主主義的社会に移行した事は「解放」ではあったが、GHQは被爆者に正義をもたらしたわけではなかった、と語った。なんと、GHQの医師たちは、被爆者を治療するどころか、原爆の効果を検証するために被爆者を診察したというのである。GHQは、さらに、原爆に関わる出版物を監視し取り締まり、広島と長崎の個人的な書簡さへ没収した。
乗松氏が指摘するように、「九条の会」は日本中に急速にその数を増やし、その勢いは海外にも飛び火し始めた。この平和条項を守り平和を実現しようとする運動は、日本全国で七〇〇〇を超える団体によって進められている。「トロント九条イベント委員会」の乗松氏やデービッド・マッキントッシュ氏は、二〇〇五年五月に発足した「バンクーバー九条を守る会」の創設メンバーでもある。二〇〇八年五月四日から六日まで、日本で開かれた世界初の国際第九条会議には、日本国内外から三万人以上もの人が参加した。カナダからは、市民からの寄付によって集められた資金で、四人の学生が参加している。今回開かれた五月一五日の集会は、トロントやバンクーバーといった活気に満ちた大都市が持つユニークな可能性を示した。大きなコミュニティーとその中で培われた積極的な交流を背景に、国境を越えた運動を結びつけ、世代を超えた日系人の仲立ちとなったのである。

(原文英語 日本語訳 菊池幸工)

2009 Constitutional Advocate of Peace – 日本語版

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